徒然

日々思ったことをつらつらと書いていこうと思います

刑法と刑罰(1)〜刑法って何?刑罰って何?〜

1. はじめに  ショッキングな事件が起こると、犯罪への憎悪、犯罪者への憎悪が湧き上がるとともに、その処遇にも注目されます。刑法は個人の人権とも深く関わり、複雑になっています。日々目にするニュースは犯罪関係が多いため、法律=刑法という関係を持っている人が多いほど、人々の注目を集めるものだともいえます。
   私は、学生時代に刑法ゼミにも所属し、2年半ほど刑法を勉強するという謎な学生生活を送っていました。その経験を通じて、私の考えと刑法の一般的な考え方を紹介していきたいと思います。

 


2. 刑法ってなに?
  日本の刑法典は、犯罪と刑罰が明記された法律です。法律に何が犯罪になるのか、犯罪となった場合にどのような刑罰が科されるのかを明記しなければならないという罪刑法定主義の考えから、一般的な犯罪について書かれています。また、刑罰を科す時のルール一般も定められています。例えば、どういう人に対して刑罰を科すのかということです。心神耗弱や心神喪失の者に刑罰を科さないと書かれていたりします。また、犯罪行為にはなるが、犯罪とされない例外も定められています。正当防衛や緊急避難などはこれに当てはまります。
    現在、“犯罪”として“刑罰”が科されるものは、刑法典以外にも多く定められています。刑法典の前半にはすでに述べた犯罪とする、刑罰を科す際の全般的なルールが定められています(総則)。この総則は、刑罰が科せられる犯罪全てに当てはまります。


3. 刑罰って何?
    刑法を体系的に習う時、刑罰って何というものにぶつかります。この問いについて、私は、刑法の目的が何かという部分とも深く関わると考えています。
   かつて、「目には目を歯には歯を」という言葉に出るように、応報刑というものが一般的でした。そのため、犯罪を行なったものに対して、市民の正義感に任させて罰を加えようというものです。しかし、現代ではこの応報刑のみに縛る考えは一般的ではありません。応報刑と一般予防、特別予防という考えがあります。一般予防とは、一般市民が犯罪に陥らないようにする予防効果です。すなわち、刑罰という見せしめをする事で、「あんな刑罰を科されるのだったら、犯罪はしないでおこう」という方向に導くものです。特別予防とは、犯罪者を一般社会に戻すための教育を行うというものです。刑務所見学に行くと、刑務官の方はよく犯罪者の矯正という言葉をよく口にします。これは、一般社会に戻り、犯罪を犯さないようにする教育を意味しています。

 


4. おわりに
  とりあえず、ざっくりと説明しました。深く説明しだすといくらでも深く説明できるので、本当にざっくり説明しました。これ以降、これら知識を前提に、精神障害犯罪者、死刑についてなどを紹介していきたいと思います。
   また、疑問があれば、コメントをください。できる限り、返信したいと思います。

 


<参考文献>
山口厚刑法総論
大谷實『刑法総論講義』
十河太郎他『基本刑法Ⅰ 総論』

家族の形(2)-同性婚(日本編)-

前回の続きです。今回は日本の同性婚について話していきたいと思います。

同性婚の動き
  2000年代後半から、同性カップルが結婚式をあげる(日本の婚姻は婚姻届を受理したことによって成立するので、儀式は形だけで何の効果もない)カップルが報道されるようになってきました。もともと同性愛を禁止する法律がなかった日本は、いわば隠れた存在として同性カップルを扱ってきました。
   2015年、渋谷区が日本で初めて、婚姻関係と同じと言えるような同性カップルに対して、証明書を発行するようになりました。これをきっかけに、同様のシステムを導入する自治体が増え、市町村単位で広がっていきました。現在では、20ほどの自治体が導入し、他の多くの自治体が導入を検討しています。
   企業でも、婚姻したものに与えていた利益を同性カップルも受けられるように仕組みを整えるところが増えてきました。野村證券ソニーはかなり進んでいると聞きます。
   そして、2019年2月、同性婚を求める人たちが一斉に全国で訴訟を提起しました。また、国会議員の中でも当事者が中心となって研究会などが開かれているようです。加えて、国連で性的指向性自認に関する声明が出された際、日本は賛同をしています。

 


同性パートナーシップとは何か
    2015年の渋谷区をきっかけに広がった同性パートナーシップについて、当事者の間でも(一部ですが)、世間一般にも婚姻が認められているとの間違いが広がっています。この同性パートナーシップを法律的にどんなものかを説明するものは、法律の専門誌を除けばあまり見当たらず、世間一般の方、当事者の方には厳しい状況にあるため、一度解説したいと思います。
    この同性パートナーシップは法的には一切なんの効果もないものです。通常婚姻が成立すれば、権利や気味を得ますが、そういったことは一切ありません。このパートナーシップは、カップルの結びつきが一定以上に強いということを示すにとどまっています。
   しかし、なんの進展もないわけではありません。民間の企業や病院などが婚姻をしているものに限っていた自主規制を同性パートナーシップの証明書を持つものにも認めるように動いています。一部の企業では、従業員の配偶者控除を同性パートナーシップ証明書をもつ者にも広げています。そのため、法律上は単なる事実関係の証明書でしかありませんが、民間での効果は一定程度あると言えるでしょう。
    近年まで宗教上の理由で同性婚を認めてこなかったイタリアでも、国が認めないからということで地方自治体レベルで日本同様の仕組みがありました。EUに加盟しているという事情がありますが、次第に国に広がったので、何の意味もない仕組みと悲観する必要はないでしょう。

 


同性婚は禁止されているのか

 


憲法の話
  よく同性婚の議論がされる際、禁止されているというような言葉が上がったりします。よく憲法を理由にされますが、それは正しいのでしょうか。一度説明したいと思います。
   憲法24条は婚姻の権利と両性平等を定めています。婚姻の権利の際に、「両性の合意に基づき」という文言があり、案の段階では「both sexes」になっていました。だから、同性である同性婚は認められないと言われています。
   実際に同性パートナーが婚姻届を提出すると、受理を拒否されますが、その理由として憲法24条があげられることがありました(現在では憲法を理由にというのは無くなっています)。しかし、明文で同性婚を禁止するとは書かれていないので、グレーゾーンと言えるでしょう。
    最近の学説では、この「両性の」という部分は「当事者の」と読み替えができるというものがあります。日本国憲法ができたのは、戦後間もない頃です。その当時、同性愛は世界でもタブー視されており、同性婚などもってのほかの状況でした。だから、「両性の」と記すことは当然と言えるでしょう。しかし、2000年代に入り、人権の観点から同性婚を認める動きが活発化したので、憲法が想定していなかったが、新しい価値観として同性婚憲法上禁止していないという読みかえができると言われ始めました。スペインの憲法も日本と同様の文言があったようですが、両当事者に読み替えできると考え、憲法を変えることなく同性婚を認めました。ちなみに、スペインはカトリック国です。
    憲法学者の中には文言から離れすぎているという人もいます。憲法を変え、両当事者にとした方が良いという意見です。私もこれには賛成です。上の読みかえも可能だとは思いますが、書き換えた方がより良いと考えられると思います。

 


民法の話
   民法で婚姻の効果を定めている条文は、全て主語が夫婦になっています。このことから同性婚は厳しいという意見もあります。確かに夫婦という言葉はどれだけうまく読み替えても、1組の男女の結合体としか読めない気がします。
   民法も元々は明治にできたものです。日本国憲法ができた際に大きく改正は行われ、そのあとも現代化をされてきましたが、基礎は明治にできました。そんな昔に当然同性婚という概念はないですから、両当事者との読み替えもできなくはないと思います。しかし、憲法の文言よりも明白に1組の男女の結合体を表す言葉が使われている以上、民法の改正が必要になっています。

 


・第三の形の可能性
  前回紹介したように、婚姻ではなく、パートナーシップ制度(日本のものとは異なります)から発展していきました。そのため、日本でもパートナーシップ制度を導入すれば同性婚ができるようになるのではないかと考えます。
   婚姻類似の形になるので、憲法がどれだけ影響を与えるのか難しいところではありますが、読み替えが可能であるところなので、パートナーシップならば法律単位で成立が可能なのではないかと考えます。すでに日本では土台があるので、法律的な効果(相続や親権など)を付与して仕組みを整えるハードルは低いと予想しています。

 


外国で同性婚をしてきた場合
  よく外国では認められているんだから、外国でしてきたらいいじゃないと言われることがあるかと思います。この点について正しい理解をされている方は少ないかと思います。そこで、説明していきたいと思います。
   外国でした婚姻が日本でも絶対に認められるわけではありません。これは同性婚だけでなく異性婚も同様です。外国の婚姻を認めるかという基準が法律にあり、それに合わないと認められません。同性婚をした場合、基準の中に公序というものがあり、公序良俗に反するものは認められないとなっています。例えば、離婚を認めないものや、女性差別的な婚姻の仕組みがあるものは認められない傾向があります。
   日本では同性婚が成立していないので、この公序の基準で認められないのではと考えます。しかし、実際に海外で同性婚をして帰ってきた日本人が裁判をした例がないので、裁判所がどのような判断をするのか難しいところです。
   私の指導教官はこの分野のエキスパートなのですが、上記の国連の声明に賛同しているから公序で認めないっていうことはないのではないかとおっしゃってました。もしかしたら、何らかの形で認められることもあるかもしれません。

 


同性カップルにできること
  では、相続をパートナーにしてほしい、法律の効果を得たいという同性カップルはどうすればいいのでしょうか。
   一般的に、養子縁組が使われています。文字から分かるように養子縁組は親子関係を作出するものです。日本の養子縁組は届出で成立するので、成立の可能性が大きいです。しかし、養子縁組をしたもの同士の結婚を禁じています。これは根拠のない、倫理的な規定です。同性婚が成立した場合、養子縁組をしていたカップルには認められない可能性があります。
   この点について、海外では例外的に婚姻を認めたことがあったようです。なので、日本でも同様の形が可能なのではないかと思います。また、仮に認められなくても全国各地で訴訟されることが予想されるため、なんらかの形での結論が出ると考えています。
   また、相続であれば、遺言ということもあり得ます。私はあまり専門ではないのでわからないですが、可能でしょう。

 


おわりに
  この分野は論文が何本もかけるほどの分野です。今回はわかりやすさを重視して、難しい法律論は一切さけています。そのため、さらっと概観するにとどまっています。また、変化のスピードが早い分野でもあるので、今後も更新していこうと思っています。
    何か質問があれば、ツイッターを知ってる方はツイッターやコメント欄で随時受けています。
   読んでいただきありがとうございました。

家族の形(2)-同性婚(世界編)-

はじめに  私は国際家族法を専門としており、その中でも同性婚について研究しています。このブログは私が思ったことを書くというコンセプトで始めたのですが、私の研究内容を書くことはあまりなかったので、一度まとめようと思い、まとめてみました。知りたい方も多いため、できる限り、わかりやすく書きたいと思っています。

 


同性婚の歴史
  1989年、同性婚とは違う保護形式であるパートナーシップとしてデンマークで始まりました。このことは世界ではかなり衝撃的だったと聞いています。その後、北欧を中心にパートナーシップ形式で法的保護が進みました。
    時は過ぎ、2001年、オランダで婚姻が同性カップルにも解放されました。そこから、婚姻が同性カップルにも開放する動きが高まっていきました。同性婚法制化をきっかけに、パートナーシップの廃止も進んでいきました。
   1960年代まで同性愛は、イギリスやアメリカなどでは犯罪とされていました。これは、宗教に起因するものです。同性愛処罰を定めた法をソドミー法というのですが、ソドミーという言葉はソドムの村から来ています。この村は色欲によって滅んだとされ、自然に反する色欲が原因とされています。この自然に反するの部分が同性愛とつながってきています。
   しかし、市民の多くの活動があり、同性愛が脱犯罪化しました。ソドミー法のあったイギリスでは2005年にパートナーシップ形式で、アメリカでは2012年に連邦裁判所が同性婚を排除する法律を違憲であると判断するに至っています。

 


同性婚の現状
   最近、アジアで初の同性婚を認めるに至ったとして台湾の同性婚が報道されていました。また、タイでも同性婚容認に向け、法案が閣議決定されるに至ってます。コロンビアでも同性婚が合法化され、南米では4か国目とのことです。
   しかし、一方で、西アジアでは同性愛は迫害の対象である。同性愛は死刑となっています。また、人権の観点から進んでいるイメージを持っている欧州も東西で大きく違っています。西ヨーロッパは、かなり同性婚・パートナーシップの形で法律上保護されています。
   イタリアはカトリックの国で、同性愛に対してかなり厳しい対応を行ってきました。スペインも同様です。しかし、欧州には人権条約という条約があり、個人の権利、家族の権利がかなり広く認められています。その人権条約に基づいて、同性婚を容認するようにという判決が出されました。その結果、2014年ごろには両国で同性婚を容認するようになっています。
   しかし、東ヨーロッパの状況は大きく違います。東ヨーロッパは、東方正教会の影響から同性愛に対して厳しい国が多いです。
   EUにはEU全体を範囲にする法律があり、その中に人権を保証する法律もあります。その中で、かなり人権を守る方向に動いているのですが、婚姻はそれぞれの国で決めてくださいとなっています。そのことから、EUとして各国に同性婚を強要できないようになっています。これは同性婚が各地で認め始められていた時期に成立したため、自国の婚姻を同性婚から防御するために定められました。
    そのため、東ヨーロッパの国(ブルガリアポーランドなど)は、憲法で婚姻は1人の男性と1人の女性によるものであると明記し、パートナーシップといった婚姻ではないシステムもありません。このことは度々法律問題になります。今年3月、ルーマニア人の男性とアメリカ人の男性のゲイカップルがルーマニア帰国するに際して、パートナーを家族として居住しようとしたところ、拒否されるという事件の判決が出ました。
   このように、世界の状況はまちまちです。同性婚容認を進めている地域は、親権をどうするかといった婚姻容認に付随する権利の議論が進められています。

 


同性婚の形
  今まで同性婚について、歴史と今現在の世界の様子をみてきました。ここでは、実際にどういう形で権利が認められているのかを見ていきます。
    歴史的にはパートナーシップと婚姻という形があります。パートナーシップは、婚姻ではなく、別の形で法律上保護しようとするものです。一方、婚姻は男女のカップルと同じ婚姻を同性カップルにも認めたものです。
    パートナーシップはさまざまな形があります。最初にパートナーシップを認められたときは、ほぼ婚姻と同じでした。親権に関して少し異なっていましたが、婚姻ということに抵抗があるから、別の形にしたのかと思えるものでした。また、フランスではパックスと言われるかなり弱い形もあります。これは相続といった財産に関係するところに関わっており、婚姻よりもゆるい形で成立します。このパックスは男女のカップルにも認められています。
    最近認められた台湾でも、婚姻ではなく別形式になるとされており、同性婚を認めましたが、男女カップルに認められるものとは異なる形式になると予想されています。
   婚姻を同性カップルにも認めた国でも、親権などの分野で男女カップルと異なることがありましたが、徐々にその差はなくなりつつあります。

 


おわりに
  今回の記事では世界の状況をさらっと紹介してきました。ヨーロッパやアメリカでも同性婚には多くの問題があります。それを細かく取り上げませんでしたが、そのことを心の片隅に置いていただければと思います。
   次回は日本のことについてお話ししようと思います。日本のことは多くの人に関わりますし、現在裁判がされていることもあり、注目されている方も多いと思います。ですので、少し細く書いていこうと思います。
   できる限りわかりやすく書いたつもりですが、わからないことがあればコメントで質問していただければと思います。

家族の形(1) -夫婦別姓-

   私は後輩の指導をするために、先生のアシスタントとしてゼミに参加している。そのゼミで夫婦別姓を取り扱った。私のゼミでは4人中1人が反対していた。   私は同性婚を研究している。その関係もあり、そのゼミでは家族の形になった。家族の形に法律はある程度の関与をしている。もちろん法律のいう家族が家族ではない。しかし、法律が予定している家族から外れると、不利益が多い。そのため、法律が多様な家族を容認することは不可欠であろう。そこで、何ができて、何ができないのかを、家族の形を見ていきたい。

 


夫婦別姓とは
  数年前、最高裁違憲訴訟で合憲判断がなされたのは選択的夫婦別姓だった。これは夫婦を同姓にするか、別姓にするか選択できるというものである。夫婦別姓は、夫婦が各々別の姓を名乗るというものだ。人権、個人の尊重、アイデンティティなどさまざまな観点から導入が求められている。女子差別撤廃条約も別氏を名乗れるよう求めている。
   現状、日本では9割ものカップルが男性サイドの姓を名乗っている現状にある。民法上は夫または妻の姓を名乗ることとしており、女性サイドも選択できる。しかし、男性が妻の姓を名乗ると、婿養子などと呼ばれ、なかなか名乗りづらい状況にある。上記の数字がそれを物語っているだろう。

 


かつての家族システム
   かつて、日本の家族は、男性をトップにした家父長制であった。女性には行為能力がなく、夫の判断がなければ何もできなかった。女性は家庭内の労働力として、家に入ることになる。当然、権利などない。日本国憲法制定時に、起草委員の一人が、日本の女性のひどい状況を是正するためになんとか力になりたかったと述べ、憲法24条をまず最初に考えたと言われるほどである。
    このような仕組みが整えられたのは、明治である。明治民法(現代の民法のベースは明治のものだが、憲法の近代化によって多くの部分が変わっている)が規定していた。かつては、夫の姓とされていた。上述の家制度からも容易に想像できるだろう。ちなみに、家父長制は伝統的なものではなく、明治期にできたものである。このシステムを指して、伝統的家族観などと言っているのであれば、日本か培ってきた歴史が無駄になるかもしれない。
   現在も9割以上が夫の姓を名乗っていることから、明治の家族システムを法が変わっても、時代が流れてもひきづっていると思える。男性を主人と呼ぶのもこのシステムをひきずっているのかもしれない。ある意味で夫の家に入る=姓を名乗ると捉えられるのだろう。これは、長い年月をかけても変わっていないという残念な結果だ。

 


容認の動き
  政治の場面でも、法律の場面でも多くの議論が重ねられてきた。1990年代に入り、議員が議論する会を開き、法律化に向けて動いてきた事実がある。しかしながら、容認されなかった。
   近年の裁判においても、個人の尊重(憲法13条)を基に違憲だとし訴訟を起こしたが、アイデンティティに関わっても個人の尊重に関わるものではないとして、合憲との判断がなされた。しkし、ギリギリ過半数による合憲判断で、女性裁判官は違憲としたとかしていないとかいう噂が流れている。
   残念ながら、合憲とされたことで、議論の熱が一気に冷めたといえよう。世間的にも注目を集めた議論だったが、一気に冷えていった。最高裁が常に正しい判断をするわけではない。疑問のある判断を下すことも多い。しかし、影響は大きい。残念な結果である。

 


権利の性質
  夫婦別姓は、男女へ認められた権利であるが、世界的に女性への権利というコンセンサスがある。確かに、婚姻後、女性の姓を名乗られることが少ないことから 、女性の権利ということになるだろう。国連も女性差別撤廃条約夫婦別姓について述べていることからも明白だ。
   女性の権利となると、世間的なコンセンサスを得にくい現状があると私は考える。男性にとっては当然に“どうでもいい”権利になってしまう。そこに加えて、女性の中でも権利容認を良しとしない層がある。女性が権利を主張するとき、女性が権利を求めるなんてけしからんなどという人もいる。戦前の思想が今も根付いていると思うと、残念である。
   夫婦別姓という権利はあらゆる側面から説明される。アイデンティティや個人の尊厳である。私個人的に姓に対して何らの気持ちも持っていないので、積極的に名乗りたいとは思わないが、男性に支配されてきた女性というシステムの遺産である側面があるなら早急にやめるべきシステムだと思う。近年の判例では個人の尊厳には当たらないとの判断がなされた。個人の尊厳はいかようにも取れる。全部容認しろまでは言わないが、戦前の遺産であり、批准している条約でも推進され、世界的潮流として夫婦別姓がある。そんな中で否定し続けているこの国に対して、ため息が出てしまう。

 


姓で見るさまざまな家族の形
  ファミリーネーム(姓)は、各国によって大きく異なる。夫婦別姓でよく言われるのが、子どもの姓である。どっちの姓を名乗るのか問題だから、夫婦同姓でいいとも言われる。たしかに、これは夫婦別姓を選択したカップルにとって死活問題だろう。それゆえ、カップルがそれぞれ平等な立ち位置に立って、話し合い、納得することが大切になるだろう。
   スペインでは、父方と母方のファミリーネームを共に名乗っている。当然、その父もその母も同じだ。そこでもどれを選択するかという問題はあるものの、父と母のいずれのファミリーネームも名乗れるわけだ。ダブルネームになる国はスペイン以外にもそれなりにあるらしい。新しい姓を作り出す国もある。また、ミャンマーではファミリーネームがない。名前が3つあり、いずれも自分のファーストネームになるみたいだ。
   日本では伝統的家族観などと言って、旧システムを維持しようとする。しかし、上述の国の家族がバラバラかといえばそういうわけではない。かつて、夫婦同姓で、夫婦別姓に変わった国も多くあり、そこでは以前と変わらず、ある程度の結束を持ってしあわせな家族生活を営んでいる(当然中には幸せでない人もいるだろうが)。全てを日本に輸入できないが、同姓を名乗ることだけが、家族ではない。法律上の同姓の強要、そして、社会的に夫の姓を強要していることがどうも旧態依然とした戦前の家族観を感じてしまう。
   合憲判決が出て以来、議論がされなくなった夫婦別姓であるが、今一度考えてみてほしいと思う。

わがままなのか、自由なのか-KuTooに思うこと-

   わたしのタイムラインで、パンプスを拒否するのは女性のわがままだと主張しているブログが流れてきた。わがままなのか、自由を求めているだけなのかは非常に難しいラインである。そのことについて少し考えてみようと思う。

自由とは


  そもそも自由とはなんのだろうか。自由という言葉は、身体の自由、表現の自由云々...というように非常に多くの場面で使われる。いろんな自由がいろんなところで議論されているが、自由そのものを論じているものは少ないように思う。
   自由とはと聞かれると難しいが、わたしの思う自由は、他人の権利・自由と重ならない限り何をしてもいいことだと思っている。今から150年ほど前、イギリス人のJ・Sミルが自由論を書いた。この本は国家との関係を書いている。この本では自由を妨げていい理由は他人に実害を与えるだけだと書かれている。わたしはこの論理が個人と個人でも当てはまると思う。


自由が制限される場合


  自由が制限されるのは、上記の通り他人の自由や権利と重なる場合のみである。例えば、人を殺す自由なんてものはない。これは、人にとって大切な命を奪うことは、生きる権利の重大な侵害であるし、大きな実害である。同じ理由で、身体を縛ることは、許されない。
   では、表現の自由はどうか。例えば、個人のプライバシーをSNSで個人を特定できる状態で垂れ流したとする。そうすると、流された人は攻撃を受ける可能性、知られたくないことを知られないままにしておく利益などが侵害される。これは重大な権利侵害である。一方で、政治家の不正や不倫行為は、性質が異なる。非常に個人のプライバシーに関わるが、政治家は国民の代表であることから選挙における判断が必要になる。この場合、その利益と守られる利益を比較衡量したうえで判断しなければならない。
   では、好きな服を着る自由はどうか。流石に裸はいかがなものかとも思うが、赤い服を着ようが、青い服を着ようが、フリフリの服を着ようが、キリッとした服を着ようが、他人に実害は与えないし、権利も侵害しない。
   TPOをわきまえた服などとも言われるが、わたしにとったら、あんなものは誰かが作った共通認識にしかすぎない。まったくもって絶対的とは言えない。というのもの、時代と場所によって認識が変容する。そもそも、仕事でスーツを着るのは、せいぜい200年前後のことであろう。


パンプスを履かない自由


   パンプスを履くことへの健康被害も注目されている。靴擦れや外反母趾などが挙げられる。そして、企業はパンプスを指定するし、共通認識を持っている。
   あくまでもわたしの見解はそんな共通認識は絶対じゃない、誰かが作ったものだということである。だから、パンプスを履かない場合に実害を被るかというと、被るのは履く側である。他人の権利は何も傷つけないが、自分の体は傷つくわけである。そこまでして、履き続ける理由はあるのか。やめたらいいじゃない、脱ぎなよ。


わがままなのか


   わたしはパンプスを脱ぐことについて合理的で懸命な判断だと思う。わがままだという主張はどうなのか。なにかを変えようとするとき、自由を主張するとき、わがままだのなんだのとイチャモンをつける方々がおられる。きっと今まで何となく従ってきた価値観が崩されることに対し、抵抗されたいのだろう。
   わたしは決してわがままではないと思う。男性はスニーカー通勤を推奨する傾向になっている。女性だってパンプスを脱いだっていいじゃない。健康被害あるし。


これは合理的判断の結果じゃないのでしょうか。わがままなんでしょうか。
 

性犯罪について考えてみた(後)

この記事を読もうと思われている方は前編をご覧になってから読むことをお勧めします。

四 痴漢について


   社会問題にまでなっている性犯罪として痴漢が挙げられる。性犯罪について論ずるとき、このテーマを外すことはできないであろう。
   痴漢の法律構成は複雑になっている。都道府県の迷惑防止条例、強制わいせつ、準強制わいせつが当てはまる。わいせつな行為自体が暴行を構成する場合に、痴漢は強制わいせつ罪となると考えられる。そうでない場合は迷惑防止条例の範囲になると思われる。 最近の判決で、他の乗客がいないバスの車内で寝ていた女性にわいせつな行為をした事案で準強制わいせつの判断をしたものがある。
    私個人の見解として、痴漢を準強制わいせつと見てもいいのではないかと考えている。準〜が付いている点につき、準強制性交と同様の抗拒不能が要件になる。痴漢の典型的な事案として、満員電車の車内で行われるものがある。この場合、混雑した車内ということで客観的に抵抗するのは不可能に近いといえる。この点について、外部が作り出した状況に意図的に乗っかり、わいせつな行為をしたと考えられる。そのため、準〜の構成をとってもいいのではないかと思う。
   しかし、安易に強制わいせつを取れない問題もある。裁判所の判断はあくまで客観的事実に寄らなければならない。証拠が必要となる。痴漢の現場で問題となるのが証拠の少なさである。証拠が被害者の証言のみになることも少なくないという。そう考えた場合、冤罪の危険も出てくる。強制わいせつをとった場合、6月以上10年以下の懲役となり、自由刑が科されてしまう。一方、迷惑防止条例の場合、罰金刑もあり、その刑は軽いものになる。証拠収集の難しさもあることから、この法律構成がいいのかもしれない。
   また、証拠としてDNAや指紋もあるが、触った際にどこまで残るか疑問である。証明の可能性もあるが、万全ではない。証拠は被害者の証言に偏らざるをえない。刑法の原則、疑わしきは罰せずを徹底すると、痴漢加害者は全て罰されないという状況になる。困難な問題が含まれる。


五 自衛について


   自衛について、男女を分けて論じられることの多い性犯罪では、女性サイドから男性ではなく、女性に強いるのかとの声も聞かれるが、撲滅には程遠いのだから、自分の身は自分で守るしかないだろう。
   自衛は、法律では正当防衛と言われている。法律の構成としては、急迫不正の侵害があり、かつ専ら防衛のために相当性のあるものでなければならない。相当性がなければ、過剰防衛になる。
   痴漢の場合は、自らの性的尊厳が現に侵されており、強制わいせつなどを構成する行為であることから、不正性も急迫性も満たすとしていいだろう。ここで問題となるのは、相当性になる。
   この正当防衛の特徴からして、不正Vs正という構成をとっている。反撃行為と侵害行為のバランスが著しく崩れる場合は、過剰防衛となりうる。例えば、駄菓子を取り返すのに、奪った相手を殺した場合には均衡を欠いているといえる。必要最小限度であり、相当性は求められる。しかし、唯一の手段である必要はない。
   では、この安全ピンの問題に戻ろう。安全ピンで刺した場合、傷害罪を構成するわけであるが、侵害されている性的尊厳と比較して、大きいか小さいかは判断しづらいと考えられる。ネット上の意見で傷害だという意見が多かったが、このことについて、傷害罪を構成するが、そうして痴漢を防ぐ、反撃するしかない場合にはやむを得ないと言える。実際に、身動きの取りづらい状態で、一般的に力が女性よりも強い男性から侵害行為を受けている場合に、安全ピンという武器で抵抗する。加えて、安全ピンの侵害はたしかに痛いかもしれないが、日常で刺してしまったことのある方はご存知かもしれないが、全治数ヶ月の怪我でもない(感染症のリスクについては今回考えないものとする)。となると、著しく相当性を欠いているとも言えないのではないだろうか。ただし、積極的に加害する意思を持ってはいけない。侵害行為をやめたのに、刺し続けることや、痴漢したやつに対して攻撃してやろうと思った場合には正当防衛を離れてしむ。現在行われている痴漢という侵害行為に対して、それをやめさせる目的で反撃する限りで許される。安全ピンで刺したからといって、すなわち、過剰防衛とはならない。ただ、声が出せない状況だとか、その状況によって変わるものであることに留意すべきだろう。
   ただ、裁判所が性的尊厳に対する評価を低く下す傾向があるかもしれない。身体を傷つけることに対して重すぎる判断を下すかもしれない。


六 まとめ


   性犯罪、特に痴漢は、男Vs女という性別での戦いになりやすい。片方は専ら侵害を受け、片方は過度に冤罪を恐れる傾向にある。ネットという顔の見えないフィールドで、男女という性別の違いによって、相手を考えることなく殴り合ってる印象を受ける。
   強制性交等罪になり、女性のみならず男性も客体(被害者)として捉えられるようになった。日本ではあまり取り上げられないが、世界では一定数男性のレイプ被害者も存在している。心の傷は男女関係なく深いものになるだろう。痴漢においても、冤罪を恐れる男性が世の男性の大半だろう(そう思いたい)。ある一定の男性が痴漢という行為に及んでいるのではないかと思う。
   近年では性犯罪に対する正しい理解をしようと努める研究も増えてきた。どうも、痴漢をする者は性的欲求不満だけではないようである。それら研究も生かしながら、社会問題として考えていく必要があると考える。それはないからのそ、痴漢ダメ絶対と書かれたタスキをつけ、女子高生が大量に出てくるような残念な状況になるのではないだろうか。
   性別の戦いにならず、国も民間も一つの社会問題として性犯罪の問題を真剣に考えられるようになってほしいと願うばかりである。

性犯罪について考えてみた(前)

一 はじめに


    2017年、性犯罪関係の法律が改正された。実に100数年ぶりだという。現在の刑法が制定されたのは、明治時代である。社会を取り巻く環境も当然女性の地位も今とは全く異なる環境であった。   SNSを中心に、女性差別に対する意識も相まって、議論が活発に行われている。学部時代に刑法ゼミに所属し、性犯罪を一部扱った経験もある。それらの観点から、性犯罪について一度考察してみたいと思う。まず、性犯罪を構成する刑法がどう考えているのかを振り返る。次に、最近、立て続けに無罪とされたことについて考察してみたい。その後に、痴漢を取り扱い、SNSで書いていた安全ピンによる自衛について考えてみたい。
   当然、意見は十人十色である。読まれた方と意見が違うこともあるし、私の意見に間違ってると感じる方もいるかもしれない。それは当然である。議論をしたいと思う方は、SNSやコメント欄ではなく、実際に会ってしたいと思う。


二 刑法と性犯罪


   法的側面から考えるとき、外して通れないのが、刑法である。性的自由に関する犯罪として性犯罪の一般的な規則がここに置かれている。一口に性犯罪といっても、刑法が用意する規則にはさまざまなものがある。社会に対して善良なる風俗を守ろうとするものもあれば、個人の性的自由を守ろうとするものもある。今回は後者について述べる。ちなみに、前者については公然猥褻といったものがある。
   刑法が制定された当初、性犯罪は全て社会法益と考えられてきた。社会法益とは法益の主体を社会とするものである。例えば、個人法益の中で一番大切なものは命である。命は個人の持ち物である。しかし、性的自由については、社会の持ち物として考えられてきた。性犯罪のターゲットは女性の性的自由であることも多いと考えると、この性風俗法益とする性犯罪の構成は女性差別を示す材料ともなりうる。女性個人の権利としての性的自由ではなく、社会的な利益として扱っている。当然、近年は個人法益と考えられている。
   法定刑についても、甘い傾向にあった。刑法が改正される前は、「強姦罪」で3年以上の有期懲役だ。3年なら執行猶予が付けられる。「強制性交等罪」になり、5年以上になった。強盗が5年以上であり、強盗と同様の取り扱いになっている。
   かつては、強姦罪が女性を客体としてしか扱っていないといった男女不平等の側面があったが、近年の改正により解消に向かった。これは、良き点として評価できるだろう。
 
三 ”準“について


   準が付く性犯罪も最近議論されている。強制性交等罪には、実行行為として暴行や脅迫が必要となってくる。実際に殺すぞと言ってみるとか、殴る蹴るを加えないと強制性交は成り立たない。しかし、自己の意思に反する場合はそれだけではない。薬やアルコールを飲ませたり、知的障害に乗じたりして、抗拒不能に陥らせる、自己の意思を示せなくさせることは可能である。それをカバーするのが準〜である。準とつくからといって、弱いものかというとそうではない。保護法益は同様だし、保護するものの意図も同じである。
   この「抗拒不能」に関しては、程度の弱いもので足りるとの判断が下せそうである。宗教の信者に対して地獄に落ちるとして姦淫したり、病気治癒のためと言ったり、就職の斡旋のためと言ったりしたことを抗拒不能と扱っている。
 この準〜が問題になった事件として、平成31年に入って、無罪判決が続いている。


四 判決について
 
1.裁判所からの一考察


  近年の社会の動向から被害者の性的自由から性的尊厳を重視する傾向に移っていた。しかし、最近の判決は性犯罪について無罪判決が続いている。
   まず、判決について注意してみないといけないのは、被告人が判決通りになるかと言うとそうではない。一審であり、判決内容からして当然、控訴すると思われる。そのため、二審でどのような判決が下されるかわからないが、二審次第でいかようにもなる。ただ、今回問題視したいのは裁判所がなぜ無罪という判決を下したのか、という点である。
   全部の判決に共通しているのが「準強制性交等」を扱ったものであることだ。この場合、シビアに判断されるのが「抗拒不能」という点である。抗拒不能とは一般に、物理的、心理的に抵抗できない、もしくは、抵抗が著しく困難である状態を指す。手足を縛られて身動きが取れないも含まれるし、雇用関係や身分関係を利用することも考えられる。
   過去には女性が強姦罪だと言ったが、実際のところ、別れ話がこじれた結果であったこともあり、裁判所は被告人の自由を奪う刑罰を科すのだから、シビアに判断したいのは当然だと言える。また、刑罰の性質は結局のところ、国が科すものであり、被害者が科すものではない。国が公序良俗に反すると判断した場合、刑罰を科すのである。加えて、疑わしきは被告人の利益にするという原則もある。それに、裁判官の良心によって判決は下される。となると、抗拒不能状態に疑わしき点があり、有罪まではたどり着かなかったのだろう。


2裁判所の過去


   強姦神話と言われるものがあります。これは、伝統的な性の役割、性暴力への誤解といったステレオタイプな認識から考えられているものです。欧米では、強姦神話を打ち破ることこそが性犯罪の実情を把握するために大切だと言われています。具体的なものとして次のようなものが言われています。
①強姦は、暑い季節に起こる
②強姦は、見知らぬ者の間で起こる
③強姦は、戸外で起こる
④強姦の多くは偶発的に起こる
⑤飲酒が強姦の引き金になる
⑥強姦の原因は加害者の性的欲求不満である
⑦強姦は、加害者が被害者に悩殺されたために起こる
⑧強姦は、女性が抵抗すれば実現しない
⑨強姦は、衝動的な犯罪である
⑩強姦は、残忍な暴力を伴う
11.強姦に被害者の同意は存在しない
12. 売春の合法化は強姦を減少させる
(川崎友巳『犯罪タイポロジー』(第2版・成文社・2014)77頁引用)


   この神話は全くの嘘と言える。実際、強姦罪は被害者との面識率が高い犯罪だ。また、屋外の比率が増加傾向にあると言われているが、依然として屋内での比率は高い。時間帯は深夜帯が高い傾向にある。
   このような強姦神話によって誤った判決が下されたことがある。山口地裁昭和34年3月2日下刑集1巻3号611頁は、初めて会った男性と深夜んl林道を歩くことは「常識上理解に苦しむところで」、男性が「暗黙に姦淫に応ずることを承知したものと信ずるに至ったとしたも不自然ではない」との判断を下したことがある。私はあまりにも判断として不適切だと思う。しかし、このような判断を下してきた。
   これを受けると、最近の性犯罪に対する裁判所の反応も頷けるところがあるかもしれない。そういう判断を下してきた裁判所であるということも頭の片隅に置いておくべきなのかもしれない。


3抗拒不能とは


   前述の通り、裁判所は抗拒不能という要件についてかなりシビアな判断を下している。裁判所の判断の中に「男性がそのことを認識していなかった」という言葉も出てくる。犯罪には故意が必要である。加害者側が抗拒不能状態を利用する必要がある。そのため、認識していたかという点は重要になる。しかし、何を持って認識していたかは難しい。もしかしたら、司法の限界何かもしれない。
   一方で、現在のような司法の運用であれば、国が酒を飲むのも気を使え、乱暴されても故意はないと判断していると、女性はどこまで自衛したらいいのか、男性を甘くしすぎじゃないのかというように感じてしまう。
   また、これは男女の問題ではない。同様の問題は男性にも起きうる話である。このことを認識する必要がある。そう考えるとシビアの方向を変えて判断を下してもらいたいところである。これが法の問題ではなく、運用の問題だと思う。法はこれ以上の書きようがないだろう。
 私は今の99%の有罪率は異常だと思う。しかし、性犯罪については女性差別にも関わるところもある(男性にも関わる問題であるが、女性の問題と思われることが多い。2審で違う判断が下されるとは思うが、あまりに軽率ではないだろうか。
   私は判決文をしっかり読めていないので、もっとしっかり読んで追記していきたいと思う。
(後編へ続く)