徒然

日々思ったことをつらつらと書いていこうと思います

わがままなのか、自由なのか-KuTooに思うこと-

   わたしのタイムラインで、パンプスを拒否するのは女性のわがままだと主張しているブログが流れてきた。わがままなのか、自由を求めているだけなのかは非常に難しいラインである。そのことについて少し考えてみようと思う。

自由とは


  そもそも自由とはなんのだろうか。自由という言葉は、身体の自由、表現の自由云々...というように非常に多くの場面で使われる。いろんな自由がいろんなところで議論されているが、自由そのものを論じているものは少ないように思う。
   自由とはと聞かれると難しいが、わたしの思う自由は、他人の権利・自由と重ならない限り何をしてもいいことだと思っている。今から150年ほど前、イギリス人のJ・Sミルが自由論を書いた。この本は国家との関係を書いている。この本では自由を妨げていい理由は他人に実害を与えるだけだと書かれている。わたしはこの論理が個人と個人でも当てはまると思う。


自由が制限される場合


  自由が制限されるのは、上記の通り他人の自由や権利と重なる場合のみである。例えば、人を殺す自由なんてものはない。これは、人にとって大切な命を奪うことは、生きる権利の重大な侵害であるし、大きな実害である。同じ理由で、身体を縛ることは、許されない。
   では、表現の自由はどうか。例えば、個人のプライバシーをSNSで個人を特定できる状態で垂れ流したとする。そうすると、流された人は攻撃を受ける可能性、知られたくないことを知られないままにしておく利益などが侵害される。これは重大な権利侵害である。一方で、政治家の不正や不倫行為は、性質が異なる。非常に個人のプライバシーに関わるが、政治家は国民の代表であることから選挙における判断が必要になる。この場合、その利益と守られる利益を比較衡量したうえで判断しなければならない。
   では、好きな服を着る自由はどうか。流石に裸はいかがなものかとも思うが、赤い服を着ようが、青い服を着ようが、フリフリの服を着ようが、キリッとした服を着ようが、他人に実害は与えないし、権利も侵害しない。
   TPOをわきまえた服などとも言われるが、わたしにとったら、あんなものは誰かが作った共通認識にしかすぎない。まったくもって絶対的とは言えない。というのもの、時代と場所によって認識が変容する。そもそも、仕事でスーツを着るのは、せいぜい200年前後のことであろう。


パンプスを履かない自由


   パンプスを履くことへの健康被害も注目されている。靴擦れや外反母趾などが挙げられる。そして、企業はパンプスを指定するし、共通認識を持っている。
   あくまでもわたしの見解はそんな共通認識は絶対じゃない、誰かが作ったものだということである。だから、パンプスを履かない場合に実害を被るかというと、被るのは履く側である。他人の権利は何も傷つけないが、自分の体は傷つくわけである。そこまでして、履き続ける理由はあるのか。やめたらいいじゃない、脱ぎなよ。


わがままなのか


   わたしはパンプスを脱ぐことについて合理的で懸命な判断だと思う。わがままだという主張はどうなのか。なにかを変えようとするとき、自由を主張するとき、わがままだのなんだのとイチャモンをつける方々がおられる。きっと今まで何となく従ってきた価値観が崩されることに対し、抵抗されたいのだろう。
   わたしは決してわがままではないと思う。男性はスニーカー通勤を推奨する傾向になっている。女性だってパンプスを脱いだっていいじゃない。健康被害あるし。


これは合理的判断の結果じゃないのでしょうか。わがままなんでしょうか。