徒然

日々思ったことをつらつらと書いていこうと思います

被害者責任論を考察する

この記事は、2017年7月に以前運営していたブログにて書かれた記事を加筆・修正したものです。

 

一、はじめに
性犯罪に対して、被害者責任を言う人がいる。やられた側にだって、責任があるんだと言う人がいる。 一方、そんなわけない。加害者側が悪いに決まっていると言う。
 このやり取りは解決をみていない。今もツイッターでこの意見は、言葉を尽くしてどつきあっている。
 私はあえて、この意見に対する自分の意見を表明してこなかった。しかし、今ここで意見の表明を行いたいと思う。


二、被害者責任論に対する考察
1.被害者責任を論じる側について
 被害者責任を論じるサイドは、どういう考えで論じているのかを考察する点から始めた。その観点からツイッターを眺めると、その論者の多くが、加害者側にまわるであろう人が多かった。これはすなわち、加害者擁護のために言っている。
 これは、痴漢であれば、世間的に痴漢の加害者になりやすいであろう側、すなわち、男性サイド(まあ、女性も加害者側になることだってあるだろうけど)から、論じられていることが多い。これは、言うならば、自らが加害者に回りかねないことへの正当化として言っているのではないかという疑問点が浮かぶ。


2. 被害者責任論とリスクの引き受け
 被害者責任論を論じる人は、語彙が少ない、もしくは、表現がうまくできないなどの理由で『悪い』という言葉を使いがちであるが、これはリスクの引き受け、危険性からの観点ではないかと、私は考えている。
 人はリスクを背負って生きている。例えば、外に出て道を歩くだけで、交通事故に遭うリスク、危険性がある。これは、自分が悪い場合(信号無視など)もあれば、悪くない場合(相手の運転ミス)もある。また、外に出て歩くだけで、誰かに殴られる、刺されるリスクだってある。それもまた、自分が悪い場合(恨みをかっているなど)もあれば、自分が悪くない場合(通り魔的なものなど)がある。外食店に行けば、髪の毛や異物混入リスクが少なくともある。これは生きている限り仕方のないリスクである。だから、人は最大限そのリスク、危険性が現実に現れないように努力をする。交通事故なら、交通ルールを守るし、殴られるなら、護身具を持って歩くだろう。
 同じように、性犯罪についても、暗数も含めて全体としての被害数が0とならない限り悲しきかな起こりうるものなのであるから、人は性犯罪に遭うリスク、危険性を背負っている。そのために、人は最大限の努力をするのだろう。護身具を持ち歩いたり、夜遅くに出歩かないようにしたり、人通りの少ない道を歩かないようにしたり、いろいろあるはず。
 これは、悪いというのとは違う。このリスクは、努力はするが努力では避けきれない。交通事故はどれだけ自分が交通ルールを守っていても、車は突っ込んでくる。どれだけ護身具を買い、護身術を身につけていようとも、通り魔に遭うときは遭ってしまう。同じように、性犯罪についても、どれだけ努力をしていても、避けきれない。確かに、最大限の努力はしようよということはできるだろう。しかし、努力で避けきれないものである限り、被害に遭ったのは、あなたが努力を怠っていたからであって、あなただって悪いとは言えない。
 生きている限り、リスクは負う。道を歩けば、死ぬリスク、襲われるリスクなんでもある。嫌なら閉じこもっているしかない。人はそのリスクを引き受け、生きていくしかない。そして、そのリスクを避けるために最大限の努力をするだろう。ただ、その努力も完全に避けきるものではない。だから、被害に遭ったからといって、お前が悪いという話とは違う。


三. まとめ
 被害者責任を論じる者がいかなる意図で論じているのかは一人一人聞いて回ったわけではないので、結局のところは不明である。しかし、私はできうる限りの考察をしたつもりだ。
 決して、リスクの話を悪いというワードを用いて論じている人だけでもないだろう。また、直接被害者責任を論じている人だけでもないだろう。
 もし、被害者責任を論じる人がこれを読んでくださったなら、ぜひ、この記事をたたき台として、自分の考えを再考していただきたいと思う。
 リスクの話を悪いというワードで表現している方なら、一度悪いというワードと切り離して、リスクというワードで考えていただきたい。
 直接被害者も悪いと思っていらっしゃるなら、行為に至る危険性を自らが認容しており、行為の正当化を図ろうとしているの稼働再考していただきたい。
 
 
 

顧客第一主義の害

この記事は 2017年7月に書かれた記事です

 

 近頃の問題を色々と考えてみると、どうも日本の顧客第一主義が様々な問題の元凶ではないのかという考えにたどり着いた。 例えば、労働問題。日本において、長時間労働が問題とされているが、この問題は、顧客第一主義という点から、客が便利だから、客に迷惑をかけてはいけないからといった客のことを何よりも考えていった結果、労働者側にいろいろなしわ寄せがきて、どうしようもない方向、例えば、過労死、に向かっていっていると思われる。
 また、モンスターペアレントについても、顧客第一主義によるものではないかと思われる。
 いわゆる義務教育というのは、行政が提供するものであり、子どもが権利として享受し、親は義務として子供に受けさせるものである。教育内容及び方針の決定は親と行政がともにアクセスしうるものである。
 そういった教育は今や、行政が提供する"サービス"という要素が強くなり、学校の教師がサービス提供者で、親、子どもが顧客ということがより一層強くなったと思われる。そこで、顧客第一主義で、顧客としてわがままを言ってきた親は(子どもは、まだそこまで浸透していないのでは...)、自分のわがままを通そうとする。行政サイドとすれば、問題を起こしたくない、うるさく言われては困るとわがままを認めてしまう。
 こうして、わがままが通るという顧客第一主義によって、わがままの負の連鎖が続いているのではないかと考える。そのようにして、日本人は我慢を知らない人たちになっていくといえる。
 お客様は神様ですというワードに代表されるように、企業やお店は、顧客を大切にするのは当たり前である。ただ、だから、わがままにしていいわけではない。質の高いサービスが受けられるのは当たり前ではない。当然ではないのである。
 アメリカにはチップの文化がある。チップはサービスに対する対価的意味合いがあると言われる。アメリカ人にどれだけの意識があるのかはわからないが、サービスへの対価としてチップを支払うことで、そのサービスは当たり前ではないという意識が生まれるのではと思う。そういう意味で、日本ではわざわざチップは支払わないが、それがサービスを当たり前とさせる一要因かもしれないと思う。
 お店でウェイター、ウェイトレス、従業員に怒鳴る客がいる。何があったかは知らないが、怒鳴る客がいる。先日、私が見た客は、足の横幅が大きいから、その靴よりあの靴のほうがフィットするというように、客に勧めたら、客が足にケチつけるのかとよくわからない理由で怒り出した始末であった。客だから、なんでも言っていいんだ...そんなはずあるわけない。この場合は、客のことを思い、勧めてるし、事実横幅が広いのだろう。何がケチなのか全くわからない。そもそも怒鳴るというのはいかがなものか。怒鳴るというのは暴力といえる。どつく、殴る、蹴るは代表的な暴力であるが、怒鳴るというのは、無形に近い暴力である。この認識も日本には薄すぎる。ということは、客が怒鳴るというのは、客が従業員をどついてるのと一緒。
 顧客第一主義をやめて、どんな客も大切にするスタンスはやめるべきだ。このように、人をどつく、怒鳴る客は、もはや客とは言えない。だって、もうそのお店行かないでしょ。それに、得られる利益をはるかに上回る不利益がある。じゃあ、そんな客切ったって大丈夫だし、切るべきだ。
 顧客第一主義が生む弊害は大きい。